なぜ、このブログをはじめようと思ったか
きっかけは、今年(2017年)の渋谷のハロウィンイベントが終わった翌日、ゴミ問題がニュースで流れたことでした。
2015年はゴーストバスターズで広告賞をとり、2016年はプペルで。
今年2017年の結果はコレ
ゴミ問題がニュースとして報道されました。
ゴミ拾いのイベントが、文化として根付くまでやらなかったということ。
えんとつ町のプペルが100万部を突破するためには、必ず押さえなければならなかった「オセロの角」を落としたんです。
キンコン西野さん本人が全国・全世界を飛び回っていて、いくつもプロジェクトを抱えていて、忙しいのはわかる。
でもさ、
なぜ、キンコン西野さんのオンラインサロンのメンバーは動かなかったのだろう?
もう2年もやっているのだし、流れを引き継いで、
行政だって、商店街のひとたちだって、自分たちで旗振りできたはずです。
イベント会社が企画だして、「produced by 西野亮廣」として、何かをやることもできたはず。社会的な意義を持つイベントをやりたい大企業の協賛もとれたはず。
藤原和博先生のいうところの「シンボル」として、プペルは最適で、昨年はそれを狙っていた。でも今年は・・・やめた。
今年は沖縄で、というのは前からちらちらと、発言はありましたが・・・本人が、「魔法のコンパス」でも書いていたとおり
このままのことが起きたということ。
結局さ、みんな、暇つぶしのための受動的なエンタメしか求めていない。
能動的なものを求められると、引いていってしまう。
エンタメって、他人事だから笑えるんです。
芸人さんが披露してくれる苦労話や笑える話って、「他人の体験談」だから面白がることができるわけで、それが、自分ごととして現実味を帯びたとき・・・そこには、二極化が発生する。
地元でプペル展を開催できても、講演会を開くことはできても。それらのセカンドクリエイターになりたいひとは多くいるけれども、
さすがに渋谷のハロウィンイベントに、手を挙げる勇気を持つ人はいなかった。
それだけ、「にしのあきひろ」や「えんとつ町のプペル」にとって、渋谷のハロウィンイベントは、シンボリックだったということ。
誰も手出しができない。しづらかった。
ここらへんが読めておらず、誰かいないか?って声をかけることもできたのに、しなかったわけで。
後付けで外野からあれやこれやいうのは簡単。だから、わたしなりの答えがこのブログです。
いろんなところに問題はあるけれど、一番の問題は、
自分自身をレアカード化させてやろう!って思ってるひとが、彼の周りには居なかったってこと。
わたしの問いは、「こんなにもセカンドクリエイトを推奨してくれているのに、なぜ、動かないひとばかりなんだろう?」でした。
だから、わたしはこのブログをはじめたんです。
受動的なエンタメに慣れているひとに、知識という武器を渡す。
まずは、慣れているであろう受動的なスタイルの知識提供から。
自分が好きなことを仕事化していくしか生きていけないこの時代に、
受動的な態度のままで、好きなことを仕事化できるわけがない。
自分の頭で考えて、自分でやるしかないっていってるのと同じです。
その意味、分かってるひとがどれくらいいるんだろう・・・
※ちなみにわたくし、個人事業主として15年。会社は4期目です。
言葉のおくすりとして、わたしの好きな言葉を送ります。
知識は勇気を補完する
by 石原明
結局、本を読んでもイマイチ意味がわかってないなぁ。もうちょっと詳しく知りたいなって思う人は、ぜひ、このブログのことを、あなたの周りにいる人にも教えてあげてください。
【※重要】発話意図について
言葉は、どの文脈に沿って発話されたものなのか?によって、意味が変わります。
以前、脳機能学者である苫米地英人さんのDVDを見たときに、彼が言っていたことだけども、
奥さんがいて、ご主人の名前がジョンだとする。
奥さんが、トイレのなかから「ジョン!!!」と、彼の名前を呼んだ時、その発話意図は「トイレットペーパーがないから、取ってきて!」という意味がある。
ハグしてて、「ジョン♡」って呼んだら、夜のお誘いの意味があるかもしれない。
口から出た言葉としては「ジョン」っていう固有名詞ただひとつなのだけど、その文脈によって、言葉*1は、大きく意味合いが変わる可能性があるという事例です。
これを前提に、このブログではお話を進めます。
たとえば、キンコン西野亮廣さんの文脈でいうところの「お金」とは、「信用」とは、「作品」とは・・・いろんな意味合いが含まれています。まずはこれらの言葉の定義をしていきます。
*1:キーワード
ポジショントークでしょ?
マスコミは、よりセンセーショナルに伝えて興味をひき、自社のメディアへ人を引き込むという大義があります。それが、メディアの存在意義だからです。
このため、元素材を大幅に編集・加工することもしばしばです。
Yahooニュースの見出しとかも、そうでしょ?
(え?どゆこと??)と思って、本文を確認しに見に行ったら、なぁ~んだ、ってこと、よくあるじゃないですか。
ヘッドラインの一文だけを見れば、もとの文脈にないものをセカンドクリエイトしている場合がある。
そこには必ず、編集意図があるわけです。
メディアにアクセスを呼び込まなければならないという、大前提のもと、その編集は行われます。
そこに、ライティングをした個人(=ライター)の正義はあまり関係がない。
なぜなら、企業として、メディアとしての発信をするのがお仕事だからです。いわゆる、ポジショントークだから。
週刊新潮のライターさんからしてみれば、週刊新潮を隠れ蓑に、今後も同じような記事を書き続けていくと思うんだよね。
僕が週刊新潮のライターだったら、週刊新潮が叩かれようが痛くも痒くもないもん。
責任の所在というよりも、発話者(ライター)の意図がどこにあったのか?が不明瞭なことが、「なんか嫌な感じ」の根っこだとわたしは考えています。
2つの可能性がある。
ひとつは、キンコン西野さんが指摘しているように、週刊新潮を隠れ蓑に、自分は矢面に立たず、言いたい放題している可能性。
もうひとつは、メディアの要請にしたがって、本人の意思とは関係なく、ポジショントークをした可能性。
もしも、メディアの運営方針にのっとって、ポジショントークをしただけなのであれば、そこにライター個人の思惑は、一切、入っていないとみなすべきだと思うのね。言葉尻がどうであれ。
ライターの個人的な意見としては違うものを持っていたかもしれないけれど、お仕事でポジショントークの文章を書いただけの場合、ライター名を公表しろ!っていうのは、いじめだよね。
だって、嘘をつかなきゃならない環境に、そのライターさんが居る可能性があるじゃない。
ここらへんが、「新潮社、でてこいや!」の発言を、もろ手を挙げて応援できず、うぅ~ん⤵って思うポイント。
もちろん、週刊新潮を隠れ蓑にしている場合は、それはそれで、編集責任は編集長にある。メディアを隠れ蓑としてライターを守り、自由な発言をさせてやることも、メディアとしての存在意義のひとつなのかもしれないのだから。
そして、ポジショントークをする・しないは、ライター個人の選択であり、他人がどうこう言うもんではないです。
まとめると、
この件では、ライターが「週刊新潮としてのポジショントークをしました」っていうあらわれでしかない。そして、みえみえの印象操作に対して、それが気に入らないから、キンコン西野さんは戦う姿勢を見せて、さらなる印象操作をしようとしているだけ。
わざと攻撃的な言葉を使って、センセーショナルに伝えようとするのも、もちろん、キンコン西野さんの発話意図であり、印象操作です。
言わせておけばいいのを、あえてかみついたのには、キンコン西野さんの思惑と意図があるってことです。
ポジショントークの応酬では水掛け論に終始するので、実際に、会って話をするっていうのは、有効な解決策ですね。
編集・加工によって発話意図がゆがめられるのがイヤなら・・・相手の土俵に乗るのがイヤなら、筋書きナシ!で、ネットで生放送しちゃえばいいじゃん。
どんな結末になるのか、視聴者としてはハラハラして面白いよ、きっと。
ほんでもって、正論ぶっかけて「ほれ見たことか!」と、ねじ伏せたって、意味がない。
メディアだって、共存共栄の道が必要だから